2007年12月25日火曜日

La chaux-de-Fonds



スイスは周知の通り未だ中立国をまもり現在に至っている。未だEUに加盟することいおかげで西側のヨーロッパの多くの国々が独自の通貨を捨ててユーロという共通の通貨を導入したのとはちがい、スイスフランという独自の通貨を使い続けている。紙幣のデザインから言えば退屈なユーロ紙幣を選んだ多くの国は不幸である。たとえば今亡きフィンランドマルカの紙幣にはアルヴァーアアルトが肖像画というかたちで生き続けていた。
スイスフランの紙幣にはいまだ芸術家が行き続ける。
スイス生まれの芸術家であるアルベルト=ジャコメッティ。

もうひとり紙幣を飾るのがシャルルエドワール=ジャンヌレ、通称ルコルビュジェである。
ラショードフォン。スイス北西部のフランス語圏ジュラ地方の小さな街にコルビュジェは生を受ける。

続く。。。。。。。。。

Tokyo

2007年12月17日月曜日

Berlin ユダヤ博物館別館の庭



ベルリンの空白について

ベルリンが再びドイツの首都としてEUの首都として蘇えることを可能にしたひとつの要因として奇妙だが東西を分断していた壁の存在があげられる
壁はまさにベルリンのド真ん中を横断していたそれでいて壁とひとことでいってはいるが実際には地雷の埋まった緩衝地帯を壁が両側から挟み込んだものだった。だから壁が取り壊された後ベルリンのど真ん中には巨大な空白が生まれた。
冷戦下西ドイツは首都をボンに置いた。ベルリンには再び受け入れる場所が必要であった。魚心あれば水心である。
現在ベルリン再復興の象徴であるポツダム広場も巨大な空き地であった。映画「ベルリン天使の詩」でその眺めを見つけようとするとハンスシャーロンによるベルリンフィルの黄色建物を目印にすればいい。続く。。。。。。

Berlin ホロコーストメモリアル



ベルリンの都心部ポツダム広場に程近い場所にホロコーストメモリアルはある。地上の広場と地下の情報センターによって構成されている。地上の眺めはさながら墓地のようだ。






2007年12月9日日曜日

Berlin ジーゲスゾイレから

Berlin ジーゲスゾイレ


ジーゲスゾイレは1830年代からベルリンを天空から見守り続ける。
ベルリンは黄金色の天使の街だ。

天使の足元が展望台として解放されている現在土産物で手に入る歴史地図で東西ベルリンの線引きの位置を確認しながら眺めることもできる。この高さからなら今もなお壁が東西を隔ていたとしてもとるに足らない線にしか見えないだろう。真下を走る車は数百分の一の模型の車にしか見えない世界だ。同じように下界を見つめる天使にとってもやはり取るに足らないものであっただろう。
展望台からのビスタは360度開かれていてティーアガーテンから向こう側にポツダム広場にアレクサンダー広場にテレビ塔に旧帝国議会議事堂等々が視界に入ってくる。
「ベルリン天使の詩」が作られたのは東西の壁は現役だった80年代後半だ。監督のヴィムヴェンダースによるとジーゲスゾイレのみならずベルリンの至る所に存在する天使に着想を得たと言う。当初ロケは西側に留まらず東側でも撮影することで天使の所以を表現する企てであったが交渉の末実現しなかった。口悪く言えば「西ベルリン天使の詩」と言ってしまってもいい。劇中天使という超越的な存在を表現するのに二重露出が誰がたびたび使われている。カメラマンを勤めたアンリアルカンが事後のフィルム加工を拒んだためにという説明があったが当初の企て通り東側での撮影が実現していれば壁のこちらとあちらの往来を表現するのにも同じ手法が使われたことだろう。結局劇中天使は一部セットを組立て東西の中立地帯を天使が歩くシーンだけで東側には立ち入らない。
劇中のに登場するのはオットーザンダーにブルーノガンツら演じる人間と等身大の天使である。
そのせいか人間の行動を阻むように作られた壁を越えることはできなかったわけだ。実際ベルリン市街から眺める天使はまことに小さくみえる。しかし険しい階段を一気に駆け上がり黄金色の天使の足元まで近づいてみると大変な大きさと直ちにわかる。劇中このスケール感の天使が設定されていればきっと東西の壁など取るにたらないものだったろう。

Berlin

2007年12月7日金曜日

Swiss バイエラー財団




Swiss リギ

Swiss リギ






2007年12月6日木曜日

Texas キンベル美術館



テキサス州フォートワースにキンベル美術館はある。フォートワースの中心部から車で15分ほどにあるよく整備された公園の只中にある。このあたりはミュージアムディストリクトと呼ばれる地区で名だたる作家による美術館が点在する。フィリップジョンソン、安藤忠雄。だがルイスカーンによるこの美術館が白眉に違いない。

Texas キンベル美術館


Texas キンベル美術館 ディテール



キンベル美術館があるテキサス州は日差しが強く、日向で居眠りでもしようものなら火傷しそうなくらいだ。ユカタン半島ではその平坦な大地にピラミッドを建設して支配者はその頂上に登りで太陽の神とやらと接触を図ることを試みた。たかだか80mくらいの話だ。この同じメキシコ湾に抱かれたテキサス州でも80mほどあれば太陽と抱擁できるのではないかと錯覚する。それぐらいに近く感じられる。そんな環境に自然光を利用した美術館が造られた。この写真は展示室の天井に設けられたフィン。

Paris パッサージュ


Texas ローンステート

周知のようにテキサスはアメリカ合衆国を形成する州のひとつで現にアメリカ大統領の出身地もテキサス州にある。少し時間をさかのぼるといまで言うメキシコ合衆国に属する辺境の地であった。メキシコとしても煮ても焼いても食えないこの土地をもてあましていた。続く。。。

2007年12月1日土曜日

Paris ベルシー橋 


ベルシー橋を探すにはセーヌ右岸の大蔵省の建物が目印となる。たとえばベルシー駅やリヨン駅のほうから歩いてきたときにはなんとも目障りなという印象だ。見た目でいえば全体がダイナミックで篠原一男張りの記号的な造形と外観の模様をみるとポストモダンの典型と一蹴したくもなる。ベルシー地区はパリの都心部から外れに位置し再開発が進められてきたことでも知られる。左岸のほうに目をやると同じ穴のムジナという印象はある。
ところがこれをセーヌ川に出て眺めてみると印象が変わる。この建物の執拗なまでに連続する窓と橋の連続する柱とアーチと電車の連続する窓の出会いだ。この橋の特徴は橋の上に鉄道のための高架橋が設けられ車道と鉄道の二層構造になっている。それにセーヌを行き交う観光船をいれると三層構造か。ついついカメラを手にすると三者の出会いを押さえたくなる。ドラマチックな風景だ。エリックロメールの映画「クレールの膝」でアヌシーの跳ね橋のあのシーンを思い出さずにはいられない。
映画のフィルムを想起させる大蔵省のファサードはドラマを助長しているようだ。
偶然かシネマテークフランセーズは大蔵省のあの連続する窓から見下ろせる位置にある。

Lyon リヨンビエンナーレ2007





リヨンビエンナーレの会場は市街に点在する。ベルクール広場からトラムに揺られて十分ほど南へいったところにある再開発が進むローヌ河岸の旧工場も会場のひとつだ。
リヨンに着いて当日の宿泊先を探すために訪ねたベルクール広場の観光局でビエンナーレの案内をもらう。会場が市街地に点在することがわかった。時間が限られていたので一番期待できそうということでこの会場を選んだ。頭の片隅にヴェネチアビエンナーレの旧造船所アルセナーレの会場の記憶があったからだろう。 ローヌ河岸には多くの小船が停泊している。外見からしてあるものはレストランあるものは住居として使われているようだ。会場の工場はまさに河岸にありすぐ横には水上バスの停留所と小船がカフェテリアとして停泊している。
旧工場の大きさは横浜のレンガ倉庫の半分くらいだろう。入口に併設された情報センター兼チケット売場はその日日曜日ということもあってか行列ができていた。外国人らしきはおらず地元の人が大半のようだった。
工場のなかは三層にわかれ各層とも所狭しとインスタレーション、彫刻、ビデオアートと作品が並ぶ。お客さんの様子とはちがい作家は国際色豊かだ。
作品そのものに目を転じてみる。いくつかの作品に刺激を受けた。バレーボールを一回りか二周りか大きくした大きさの透明のビニール製の球に360度植物を植えて四方八方からロープで引っ張り宙吊りにした作品だ。植物は管に繋がれどうやら点滴のごとく水が与えられてるようだ。時折水滴が地べたにぶっきらぼうに置かれた皿に静かに落ちる。このインスタレーションの部分だけ湿気に覆われているようで植物園にいるようだ。植物の生息する球はおそらく地球のデフォルメだ。しばらくそこにいると水滴は地球の流す涙に見えてくる。
二層階中央にはイベントのために大きく広間が設けられている。その日はダンスパフォーマンスに出会うことができた。リヨンはダンスの盛んなことでもよく知られている。ベルクール広場にほど近いジャンヌーベルが改装を手がけたオペラ劇場の一階のアーケード状の入り口の床には若者たちが集まり、オペラ劇場という堅苦しい響きから遠く離れたストリートダンスを思い思いに興じているのを目撃した。黒光りする大理石の床にヌーベルの代名詞でもある艶のある赤のネオンが交錯する光景を背景が強烈に印象に残る。

2007年11月30日金曜日

Bern




2006年晩秋。場所はスイスの首都ベルン。
ベルンの街一番の目抜き通りは傾いている、そう聞けば日本の地方都市の商店街の
シャッター通りに象徴される商店街のおかれている厳しい状況を想像されるかもしれない。
傾きとはただ目抜き通りは坂道ということだ。中央駅付近から旧市街地の輪郭をなすアーレ川に架かる橋に出るまで休みなく続く。距離にして数キロに及んでいるだろう。道幅は15m程で車と路面電車が我が物顔で忙しなく往来する。歩行者は道の両側に隙間なく立ち並ぶ建物の一階が3mほどの歩道として開放していてその奥に商店が立ち並ぶいわばアーケードを行き交う。その様はパリのリヴォリ通りを想像してしてもらうといい。そこまで規律の正しくはないが美しい回廊だ。
しかし世界中にここまで長々してなくとも坂の街はたくさんある。一番の見所はその傾きにある。通りの大部分を占める車道は丘のうえにある中央駅から谷に向かって二点を定規を当てて結んだような傾きだ。ところがこのアーケードは商店街であるのでショッピングに適したような緩やかな傾きで造られている。車道とアーケードの傾きは並行ではない。しかしそれでは駅付近からアーケードに入ってしまえばいつまでたっても谷にたどり着くことができないことになるがそこは所々階段が設けられていて誤差は解消され車道とアーケードは平行に保たれている。この傾きの差異がこの目抜き通りに豊かな実りをもたらしている。だからこの長々とした坂道を下るにしても上るにしても気分は変わらず上々だ。公式サイトhttp://www.berninfo.com/en/weather.cfm

2007年11月27日火曜日








Vaux le vicomte ルノートルの庭








パリのリヨン駅から四十分ほどRERに揺られMelunへ。駅前でタクシーを捕まえて十五分ほどでシャトーに到着する。Vaux le vicomteの庭は後にヴェルサイユ宮殿の庭を手がけることになる庭園家ルノートルによるものだ.
駅から市街をぬけて幹線道路にでるまではパリ郊外によく見かける風景だ。幹線道路をしばらく行くと周りの景色は変わる。ぐっと視界が広がりどこまでも田園風景が広がっている。それほど動きのないその風景にときおり現れる手入れの行き届いた防風林や鄙びた小屋が遠近感を演出する。しばらく行くとタクシーの車窓は木漏れ陽に斑目になったかと思うとタクシーは巨大な並木のなかを走っていた。行けども行けども直線を進んでいるうちにこれがシャトーの言わば参道であることに気がついた。訪問者を一キロはあるだろう直線の並木道がお出迎えしてくれるのである。シャトーの門の前でタクシーを降り今来た路を振り返ってみるとそれが20m30mはあろうかという背高ノッポの並木だと知れる。それに皆同じほどの高さにそろっている。

この印象はシャトー内外を一回りしたあとに残った印象だが創造することだけでなく日々大きく変化し続ける生きる植物をある形をそれを後生まで維持できているすごさに圧倒される



入り口からすぐレストラン土産物屋馬車の資料館を抜けるとシャトーが姿を見せる。

目的の庭はシャトーから遙か向こう側
に幾何学的に広がっている。ゴルフ場のスケール感といううところか。まさしく帝国主義という概念はパースペクティブの中心のキングから外側に向かってパズルを埋めて行くようものであった。ここでは宮城シャトーという名のキングを中心に建築、階段、噴水、池、彫刻、植物でシンメトリーに構成されている。おそらくは当時はここに使用人が常にウロウロしていただろう。それはある物は植民地でありあるものは奴隷を演じているのだろう。帝国主義という図式の背骨がすべてを支えている。
公式サイト http://www.vaux-le-vicomte.com/

Paris シネマテークフランセーズ

フランソワトリュフォーの映画「夜霧の恋人たち」の日本版のポスターは数ある映画ポスターのなかでも印象的な図柄だ。パリが世界に誇るアイコンであるエッフェル塔が背景として使われている。確かにこの劇中の冒頭にエッフェル塔が登場するだけで終始舞台はパリにもかかわらずその後は出てこない。この映画はエッフェル塔よりも先にシネマテークフランセーズが登場する。登場時間もこちらのほうが長く先にあげた日本版ポスターも背景はシネマテークフランセーズでもよかったのではないかと思うほどだ。
何故エッフェル塔が登場するのは主人公アントワーヌが兵舎の留置場を出るところから始まるのだがその位置関係を説明するのにエッフェル塔を基点にカメラが留置場を捕らえる。ただの枕詞である。
 一方のシネマテークフランセーズは説明的に使われるでもなくただ冒頭に登場する。最後まで映画を見終わって意味が見出せるでもない。映画史を紐解いて「夜霧の恋人たち」撮影中に起きた事件を思いださなければならない。
ときのシネマテーク館長ラングロワが政府によって突然解任されたことに端を発する事件のオマージュだ。トリュフォーからゴダール、リベット、レネなどカイデシネマの連中を中心にフランスの映画界関係者、果てにニコラスレイまでもが集い政府に抗議した一連の事柄だ。
ドキュメンタリーが「夜霧の恋人たち」のDVDに収録されている。カメラはネストールアルメンドロス。
 そもそもラングロワが学生当時に始めたフィルムの収集からことから始まった。のみの市でがらくた同然に扱われていたフィルムを丹念に集めて上映することがトリュフォーやロメールやゴダールなど若かりし作家たちが歴史を学んだ。ヌーベルヴォーグという結晶を生み出す要因の一部となった。アンリラングロワが生みの親と目される所以だ。
 現在は当時の場所ではなくパリのベルシー地区の公園のフランクゲーリーの作である旧アメリカンセンターに入っている。2007年秋フランスを襲った大規模なストライキの影響で予定がたたずにふらっと訪れたシネマテークではあるフランス人役者の展覧会が行われていた。ちらしによると展覧会にあわせてワークショップが行われるということであった。特別ゲストの欄に目をやるとエリックロメールの名前があった。ロメールによるラングロワへのインタビュー映像を思い出した。


公式サイトhttp://www.cinematheque.fr/fr/la-cinematheque-francaise.html

2007年11月25日日曜日

Newyork Tim hawkinson




2005年新年ニューヨークにて。Tim Hawkinson展は会場であるWhitney museumを飛び出しミッドタウンのビルのアトリウムにも出現した。hawkinsonのモチーフには器官らしきものが多く観られる。しかも機械仕掛けで不器用な動きを伴い子供たちはおおいに喜ぶことだろう。現実の器官たとえば心臓や胃袋等々は内部で高度な働きで支えているものだ。それにしては作品は明らかに稚拙なつくりでヘタウマ感が大いに漂う。
 日常生活を送っている限りは人間の内部はブラックボックスであって自分の臓器や血管や胃袋を白日の下に晒す機会などない。あってもせいぜいレントゲン写真か胃カメラの映像くらいがせいぜいだろう。
作品のスケール感が大きいのでWhitneyの展示ではまさに人体に収められた器官のごとくぎゅうぎゅう詰めであった。周知のように人間の胃袋にしても取り出してみればその長さは何kmにも及ぶ。ここのアトリウムでは器官は伸び伸びと謳歌しその様は実に爽快であった。続く。。。。。。

2007年11月19日月曜日

Lucerne 文化センター


2007年11月18日日曜日

kyoto westin hotel


Kyoto westin hotel


Kyoto westin hotel




Kyoto 銀閣寺




2007年11月13日火曜日

Paris Hotel le walt

左岸のアンバリッドとエコールミリタリの間にホテルルウォルトは位置する。四つ星のちいさいホテルだ。入り口も地味で一見したところここがホテルということさえわからない。入口入ってすぐはレセプションになっていてその奥が中庭に面した食堂兼バーになっている。今回宿泊したのは最上階のテラス付きのシングルルームだ。部屋はとてもモダンでベットルームと広い洗面台とバスタブ。どちらもテラスに面しているのでとても明るい。そしてなんといっても目の前にはエッフェル塔が部屋をギラッとこちらを見下ろす。エッフェル塔はこの部屋のために用意されたかのと錯覚してしまうくらいだ。また見逃してはならないのが部屋から右岸のモンマルトルの方角に白く輝くサクレクールがみえることだ。
公式サイトhttp://www.hotel-lewalt.com/uk/galerie.htm









Lucern Hotel Pickwick



ホテルは一階を占める賑やかな酒場に数十の客室が親子亀のごとく乗っかっている。風呂なし食事なしレセプションなしの宿泊施設としては胸を張ったB級である。ただしA級の眺めあり。だからB級の評価になる。カペル橋はもちろんのこと川向こうにはルツェルン中央駅にジャンヌーベルの手がけた文化センターまでが窓枠を飾る。

2007年11月12日月曜日

Bern パウロクレーセンター















zentrum paul kleeすなわちクレーセンターはベルン郊外に位置する。センター内部のカフェテリアから外をみやればそこはのんびりした牛の姿が眺められる。センターの敷地幹線道路をはさんで向かい側の丘は牧場である。首都の郊外といっても日本のそれを想像していたらだめだ。ここは山と湖の田舎の国スイスである。
レンゾピアノの手によるこの建物は敷地一帯に広がるローリングヒルに抵抗することなくまさしくこの敷地のために生まれた形をとっている。うねる建物というよりはうねる構造体の隙間の空間が機能している。この一帯をひっくり返せば同じような構造体が取り出せるのではと想像してしまう。
クレーはドイツというイメージがあるが生まれ育ったのはスイスのベルン郊外だ。